日本六古窯のひとつにも数えられる愛知県瀬戸市。
そこには、焼きものの街ならではの独特な「窯垣」の風景が残っています。
今回は窯垣の小径があり、古くからの窯元がいまも残る瀬戸市の洞(ほら)についてご紹介していきます。
瀬戸市・洞地区とは
商店街が集まる尾張瀬戸駅から徒歩15~20分ほどの場所に「洞地区」はあります。
細くくねった道に小高い丘があり、その上にも民家が立ち並びます。
「洞」とは行き止まり・突きあたりという意味もある言葉だそうで、山に挟まれた地形を見るとその意味がわかる気がします。
人々がなぜ坂の多いこの土地に住んだのか。それは坂を活かして登り窯を築くためでもありました。
駅から徒歩でも来れますが、洞に訪れると雰囲気が変わります。
緑も豊かでゆったりとした時間が流れていて、いまでも長年培われてきたものづくりの文化が続いている場所です。
窯垣とは何か
窯垣とは使わなくなった窯道具を積み上げて作った塀や石垣のことで、全国的にも瀬戸でしか見られない珍しい風景です。
洞地区にはあちこちに窯垣が残っていて、約400mほどが「窯垣の小径」として整備されています。
窯垣の小径の途中には窯垣の小径資料館もあり、明治初期築の窯元の邸宅を見学することができます。
本業焼と新製焼
瀬戸には「本業焼」と「新製焼」という言葉があります。
瀬戸で千年以上前から作っている陶器を本業焼と呼び、江戸時代に瀬戸で生産が始まった磁器を新製焼といいます。
もともと瀬戸では千年以上前から陶器を作ってきました。
江戸時代には九州を中心に磁器の生産がさかんになったことから、加藤民吉が九州から技術を持ち帰って磁器生産にも取り組み始めたと言われています。(そのため民吉は「磁祖」と呼ばれています)
「新」と名がついてはいますが、磁器生産も200年以上の長きにわたって続けられています。
本業焼がいかに長い歴史を持っているのか、このことからも十分に伝わってきます。
江戸時代から続く洞の窯元
古くから窯元が集まる洞地区には、江戸時代から続く歴史ある窯元があります。
ここでは、瀬戸本業窯と王子窯の2つの窯元についてご紹介します。
瀬戸本業窯と民藝のかかわり
洞地区には柳宗悦が提唱した民藝とのゆかりが深い瀬戸本業窯があります。
瀬戸本業窯は江戸時代中頃より約250年の歴史ある窯元です。
2022年には瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館] が開館し、瀬戸でどのようなものづくりが続けられてきたのかを見ることができます。
昭和中期の変化していく時代の中で民藝との出会いがあり、長年続けてきた手仕事のものづくりを続けるきっかけになったそうです。
うずまき模様が特徴的な「馬の目皿」や太さの異なる素朴な縦縞模様の「麦藁手」など、生活の中で使われる器をひとつひとつ職人さんたちの手仕事によって作っています。
瀬戸本業窯
瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]
文化財のモロがある王子窯
瀬戸本業窯から坂道を登っていくと、江戸時代中期から続く王子窯があります。
ここには明治33年築の「モロ」があり、市の文化財にも登録されています。モロとは粘土置き場や、ロクロ場として使っている工房のことで、土を乾燥から防ぐ作りになっています。
王子窯では昭和中期まで14連式の登り窯ですり鉢や甕など、日常で使うものを作っていました。
その後は重油窯に転換し、現在も重油窯での焼成を続けている数少ない窯元です。
現在は小さいほうの重油窯を使っているそうですが、かつては人が入れるほどの巨大な重油窯を使っていました。
現在もすり鉢や暮らしのなかで使える器、干支の置物など、人々の暮らしで使われるものづくりが続けられています。
まとめ:洞のトークイベントを開催しました
今回、私が参加している瀬戸の地域プロジェクト「土街人」主催で、窯垣の小径と資料館・民藝館の見学、トークイベントを開催しました。
トークの中で印象に残ったのが、窯垣の小径がこうして残せたのはだれかのためではなく「みんなの道」として後世に残したからというお話です。
地域の中で当たり前にあった光景が、長年のものづくりの営みによって培われた貴重なものだと知られるようになったこと。
そしてそれを後世に残そうと尽力した人々がいたから、洞地区に外から訪れる人も増え、まちもきれいになってきたそうです。
イベントの様子はnoteでレポートを更新しています。
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